昭和48年10月5日 夜のご理解
神様と私達のう、呼吸が合うと言う風に、一心同体というかそういうもう呼吸の合った生活が出来る。それをまあ家庭円満な生活と言う風に言うんだろうと思うですね。あのう、例えば親も、の子供が喜ぶ様にと、子供も親が喜ぶ様にと例えば思いながら、親が困る様にとか子供が困る様にと言う者はないだろうけれども、何とはなしに呼吸が合わない所に、そのう問題が起こって来る訳なんですよね。
今日もあのう、今日は大体昨日が神愛会ですけれども、今日が昨日がご本部参拝でしたから、今日先生方が見えておられまして、今日神愛会を4時過ぎまでさせて頂いて、その後、言うならお食事をあげてから、桜井先生と末永先生に「今日はいっちょう代用品ばってん、あんた達足揉んで貰おうか」と2人に足揉んで貰ながら、まあ一生懸命もうそれこそ汗ブルブルなって揉んで下さる。けれども私しはあの久富先生と重雄さんから2人から揉んで貰うと、段々段々すぐ眠くなって眠るんですよ。
所が一生懸命もんで下さるのにも拘わらず、かたっぽが気持ちなかとこば揉まんなんとで、かたっぽは痛かとこば揉みなさるごたるふうで、2人の呼吸が合わない私しとの呼吸が合わない。もうだからとうとう私しが堪らんで、もう眠ろうと思うて電気まで消したばってん眠れんから、もう少し足の方へずうっと絞る時には、段々力弱う眠るごたるしにあるてっち言うたけれども、結局最後まで眠れませんでしたけれどね。結局まあ言うなら一生懸命して下さると言う事も、受ける事も気持ちがないのじゃないでしょうが。
けれども、呼吸が合わないから、あの折角の事がそうです。私しと親教会の場合でもそれを感じますね。私しもなら親教会に、反抗しようとも思わないし、親教会も親教会じゃから、合楽を押さえ付けちからでん、こうさせようちゅう気持ちは無いとです。だからそこに、良いものが生まれて来んならんのにも係らず。
その良いものが生まれて来ない。今日はご本部参拝、ご本部のあの此処の御大祭の日にち変更の事に付いての相談に、今佐田さん方が皆んな、あの行かれました。5人でその事でそしてもうそう言う様なあのう、あのう言うならば手数を取らなければならない。それでならその「ああそうだったの」「ああそうでした」と言う様な事に成るかならんかまだ解らない位。どっちも一応親教会の言う事なんか聞くもんか。
どうでんこうでん聞かせにゃと言う物はないのです。呼吸が合わない。そこでですねどう言う様な、その生き方にならせて頂いたら、呼吸がぴったり合う様になるかと言う事ですけれどもね。だからやっぱりあの、繰り返し繰り返しのやはりもう稽古だと思うです。一辺にと言う事じゃなくて、段々段々なら善導寺と私しの場合でも、段々段々ほんなこて合楽はそげん親教会に、その楯突くなんてん気持ちは無いちゅう事を何代にも解って頂かにゃいけない様にですね。
是はあの私しと親教会、合楽と親教会の場合であってもそうである。もう折角一生懸命なら揉んでおると言う事においては、違いはないけれども、相手にほんなら、その眠れる様な快い物を与え切ってないと言う所に、私しとなら先生方では呼吸がまだ合ってない。そうすっと、重雄さんと久富先生の場合なんかもうぴったりもう目顔では、もう先生眠り御座るけんでそろそろやらなければと言わんなりに、何かこうあうじゃないでしょうか。それで、まあ静かに此処を揉む事になると、私しが寝てしまう。
そうすっとそのまま止めれれると言った様なね、呼吸が合わない。なら決して合わないからいけないのではない。それが段々稽古して行く内に、矢張り呼吸が合う様になる。ぴったりとした呼吸のあった事柄と言う物は、何でもそれは素晴らしいですけれどね。物言うこといらん。それでいて心と心が温かい物が通い合うと言った様なね、おかげを頂きたいと思いますね。
どうぞ。